2015/03
諏訪の製糸産業君川 治


【産業遺産探訪  8】



横浜港の製糸輸出額(明治44年)



諏訪の片倉館



繭規格測定器



御法川式多条繰糸機

 
 わが国の農村地帯では農閑期や夜なべ仕事として製糸業や織物業が手工業として発達していた。手工業が育つ条件としては原材料の供給、労働力、そして交通運搬ルートがある。製糸業は上越や北関東、北信、諏訪地方が盛んであったが、多少の差はあるものの全国的に手工業として発達していた。
 世界遺産に選ばれた富岡製糸場は蚕糸業の発達と桐生・足利の織物工業が関係しており、わが国輸出に大きな地位を占める製糸産業を後押しするため上野―高崎間には鉄道(当時は日本鉄道)が敷設された。この製糸場は民間に払い下げられて紆余曲折はあるが、長い期間片倉製糸により運営されていた。


片倉工業の設立と発展
 明治6年に片倉市助が諏訪(現在は岡谷市)で座繰り製糸を10人ほどで始めたのが始まりで、明治11年に初代片倉兼太郎が洋式器械製糸工場を設立し、翌年に片倉組を設立した。その後、事業拡大と共に蚕糸業や研究開発も進め、ニューヨーク支店を設立してアメリカへの直接輸出を始めた。
 更に事業発展の起爆剤になったのが、御法川式多条繰糸機を独占導入したことと云われている。
 明治44年の横浜港から輸出された生糸の実に25%は片倉製糸の生産であり、製糸会社ベストテンの6社までが岡谷の会社で占められた。長野県は明治後半から大正時代まで県別生産量のトップを走っていた。
 昭和14年に旧官営富岡製糸場を合併し、昭和18年に社名を片倉工業株式会社へと改称した。製糸会社からの脱皮である。
 製糸工業はイトヘン景気や繊維不況などを繰り返しながらも衰退産業の仲間入りを余儀なくされたが、片倉工業は今でも立派な会社として存続している。一時は繊維関連のメリアス事業を行い、靴下や肌着の製造を行ったが、現在は不動産を活かした不動産業、ゴルフ場、ホテル業、ショッピングモールなどの小売業が中心であり、本社は東京中央区明石町である。明石町は日本で最初の税関(横浜と同時)ができた所であり、横浜‐東京間の最初の電信所が設立された所である。     


岡谷を訪ねる
 秋の始まりの頃、諏訪と岡谷を訪ねた。片倉製糸2代目社長片倉兼太郎はヨーロッパの繊維産業を視察して、従業員の福利厚生に力を入れているのに感銘した。帰国して設立したのが従業員のための温泉施設片倉館である。この施設は今でも千人風呂として地域サービスを行っている。
 次に訪ねたのは岡谷の蚕糸博物館である。ちょうど岡谷市の近代化産業遺産展が開催されていた。富岡製糸場に足を運んだ人達には是非こちらにも行って欲しい。


岡谷の蚕糸博物館
  富岡は建物だけだが、この博物館には我が国の製糸産業を支えた道具や機械が所狭しと並んでいる。博物館を入ると日本の製糸業を牽引した初代片倉兼太郎の胸像が迎えてくれる。
  岡谷の製糸業は片倉製糸が際立っており、片倉家の委託資料コーナーがある。片倉工業で使用した資料や機械器具類が1部屋に展示してある。
 次は繭に関する展示コーナーで、自動雌雄選別機や繭規格測定器などが並んでいる。続いいて製糸機械の展示コーナー、ここに御法川式多条繰糸機が展示してある。この他にも多摩川式、ニッサン式など製糸機械も益々大型化していく様子が分かるようになっている。
 近代化された器械類ばかりでなく座繰り器など手工業時代からの展示もある。

 紅葉の綺麗な頃なので、翌日は足を延ばして日本百名山木曽駒ケ岳に登ってきた。千丈敷カールの紅葉が見事である。木曽駒ケ岳は3000mには僅か足りないものの、隣の宝剣岳とは対照的な存在感のある山であった。


君川 治
1937年生まれ。2003年に電機会社サラリーマンを卒業。技術士(電気・電子部門)




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